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日本人完全理解書

「もう日本人の事で悩まない」現代日本人に悩む日本人嫌いの日本人の為の提案書

論理の狭間

ほとんどの人は勉強をし、また過去に勉強をしてきました。

しかし、この勉強と云うのは一体何なのでしょうか。

これは、己の中で育んだ智慧(智識)ではなく、外部から取り入れた情報である事が多いのです。

 

つまり、「己がゼロから順番に考えたこと」ではなく、例えば小学1年生になった瞬間に担任の先生に押し付けられた「途中からの知識(情報)」です。

 

そして、大人になるに連れて常人はこのタイプの情報で頭がいっぱいなり、さらに勉強に励む人は其れ等で脳内を埋め尽くそうとします。

 

しかし、これには良い面と悪い面があるのです。

良い面はある程度、具体性のあることであれば速効性のあるものとして使えます。

しかし、長期的に観たり、その本質を観ると妄想の現実を彷徨うことになるのです。

 

何故かというと、それは他人から与えられたものであり、現実の経験に基づいておらず、真なのか知りようがないからです。あくまで、自分が信じているか、信じていないかというところが支点になっているのです。

 

イメージとしては、穴がたくさん空いたチーズや、スポンジです。

スポンジというのは物体の密度が非常に薄いのです。つまり、物質として連携されている部分が少ないのです。「穴だらけ」なのですね。

 

常人のほとんどは穴だらけの情報的ゲシュタルトを元に生きています。

だから自分でもよく分からないことして生きています。

しかし、何十年もそういうものを根拠に生きていれば、もう後戻りはできなくなるのです。何故なら、脳というのはある種「紙」のようなもので、一度そこに描けば、いくら消しゴムで消しても痕が残ってしまうからです。折り目などもそうです。

 

 

さて、本題に入りますが、

人間は少なからずこれらの穴がありますが、この穴を認識しているのはどちらかというと賢い少数派です。例えば常人も「気付いて」はいますが、常人というのはその話題になれば「知っている」と言いますが、普段の生活は知らないのと同じ方法でするのです。つまり「認識」や「理解」はしていないのです。

 

そして賢い人は、自尊心や所有している知己量も多いですから、「人は少なからず穴がある」という事自体は認識していても、具体的にいくつ、どこに、どんな穴があるかを完全に把握できる人は居ないと思います。そして、この穴にこそ、テキトウな事を詰め込んでしまうというのが今回の主題です。

 

例えば、賢い人がある事を論理的に解説しているとします。

大凡は論理でしっかり成り立っているのですが、途中途中に、まるで呼吸をする時の様に一瞬の隙間ができるのです。どんなに賢い人でもそこが論理で繋がっていない事があるのです。そうして、そういう部分にこそ彼等は「だってそれは◯◯はずだ。」とか「こうで、ああだから、◯◯なはずがない。」という風に言うのです。分かりますか?

 

〜はずだ。

〜はずがない。

 

と論理ではなく、「そんなことは当たり前だ。考えるまでもない。そうに決まっている。」

 

と「慣れ親しんだ思考」を基に穴埋めをして、節を繋いでしまうのです。

それで、その通りに更に持論を展開していきます。

 

 

論理の狭間とは、そういう意味です。

 

 

 

これは駄目なことですが、

これを「どうにかしよう」と云っているわけではありません。

どちらかというとどうしようもない事だと思います。

 

我々人類が生きる様な社会では、誰しもが社会的な役割を担っていて、全てをゼロから密に考え尽くすことはできないからです。

 

しかし、この論理の狭間があるという事を覚えておいた方が良いと思います。

 

何故なら、勉強の本質は、結局、この穴埋めにあるからです。

 

大きくて、スカスカなスポンジを作るのか。

それとも、小さくても密度の高いダイヤを作るのか。

 

価値というのは状況によるものです。

状況というのは機能と関係しています。

スポンジが本当に必用な時はダイヤよりも価値があります。

そして逆の事もあるでしょう。

また、芯はダイヤでできており、その周りをスポンジで包まれるようなものだって必用かもしれません。また、その逆の物質が必用かもしれません。

 

 

大事なのは、本当に大事な事は何のか、その本質を知ることです。

 

ほとんどの義務教育はボロボロなスポンジです。

しかし、それでも算数や数学の基本、言語の基本なども学べるので良いのです。

 

大事なのは、更なる高みを目指した時に、気付けば取替えしの付かないような落書きを脳に刻んでしまった、ということにならない事です。

 

だからこそ、知的に成長していかないといけないのです。

知性と情報(知識)が違うものである、という説明も前の記事でしました。

脳に落書きしてから、気付いても遅いのです。

 

知性とはもっと先天的なところにあるからです。

情報の前にあるのです。

ほとんどの人は情報を得た先で得られると思っています。

そして、己を信じません。

己を愛していません。

だから、外部に闇雲に手を振って、掴めるものを掴もうとします。

それで情報を知識と勘違いして、見分けも付かずに食べてしまうのです。

 

そして、その論理の狭間はいずれ腐ってゆきます。

そこから滅んでいくのです。

この狭間がある程、高い建物は建てられないのです。

そして、

 

 

ダイヤの様な美しさは永遠に放てないのです。