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日本人完全理解書

「もう日本人の事で悩まない」現代日本人に悩む日本人嫌いの日本人の為の提案書

高度な思考と言語の関係

今回は、読者に日本人の問題をよりよく理解して頂くために、以上を論題として少々書いてみることにする。

 

高度な思考、つまり、人間としてより高いレベルの知的な思考をするには、言語を大切しなければならないという結論を先ず最初に伝える。高度な思考が出来れば、身近な問題や、間接的な規模が大きめの問題、輪郭が不明瞭な問題などもより正確に捉えられるようになるから重要なのである。更に、高度な思考は想像力や予見力など、他の様々な知的な活動に派生するのは言うまでもない。特に大事なのは議論能力や他人、人と関わる上で相手とより良いコミュニケーションがとれるようになることだろう。

 

人間個人、社会や人類の成長において、より高度な思考ができるようになっていくことは、その一つの神髄と本質であると私は考えている。何故なら、いつまでも人類が同じ様な低レベルな問題を繰り返す様では、真に文明や文化が進んでいるとは云い難いからである。しかし、現状ではどう見ても、一般的に人間はあまり成長していないどころか、最近の日本を見ていると後退しているのではないかとも思えて仕方が無い。スマートフォンやパソコンなど便利な物が出来ている側面は確かに素晴らしいが、それは人類の成長の本質だとは私は思っていない。

 

さて、そんな現代ではあるが、日本人は特に言語を大切にしない民族であるように思う。彼等はどうしても着飾って綺麗に聞こえるもの、心が気持ち良くなるものを「良い物」と認識しているようだ。そういう前提があるから、彼等は問題の本質を解決する為に真剣に向き合うよりも「気分を害さないように」する事を優先するのである。要するに彼等は気持ち良ければ良いのである。高度で複雑な話になってくると大抵は「難しいよね」で終わらせようとする。更に万一議論を続けようとでもすると「面倒くさい人」「おかしい人」「痛い人」のような見られ方をしてしまうだろう。少し話が脱線したので、それはともかく、私が言わんとしているのは言語の内容、意味を大切にしないとどうしても高度な思考はできなくなり、そうなると、高度な「モノ」も捉えられなく成り、見えなく成り、より野蛮になっていってしまうということだ。

 

この「意味」を重んじるということをしない人が増えているように思う。意味を大事にしなければ、上辺だけのハリボテになり、ハリボテであり続けると意味、つまり中身は疎かになっていくので、中から腐っていくのである。しかし、上辺を重視するあまり、中から腐って行っていることすら気付かないので、大変恐ろしい病気のようなものである。

 

例えば、よく一般的な日本人が使う言い訳に「伝われば良い」というものがある。確かに、日常的で簡単なことの場合は「伝われば良い」のかもしれない。しかし、何故これでも問題であるかと云うと、人間は普段やっていることに「慣れる」、そして「慣れ過ぎてしまう」性質があるからだ。いざ、難しい問題と向き合べき時や高度な思考や会話をしなければならなくなった時、それができないという事になってしまう。これは一種の平和ボケなのだろうか。

 

非常に重要な事を言おう。

確かに言語は時代と共に変わっていくものであるが、その変化がより知的向上に適うものであるならば良いのだが、逆により野蛮性が強化されるものならば、今の時代を生きている我々がそれを認識して、できるだけコントロールし、知的向上の方向へ方針を改めなければならないのである。それが一つの国を想うと云うことではないかと私は考えている。ただ、流れるように流れれば良いのではない。特に現代日本人のようにギャル語やお笑い芸人の言葉、ネットスラング2ちゃんねる等といった類いのものに大人でさえ染まってしまい、その言葉遣いから思考法までもが染まっているのは事実である。

それで国が良い方向に行くわけがないのである。

 

もう一度言うが、今、生きている我々の責務は時代が次に進む方向を真剣に考え、その方針をコントロールすること。より良い方向へ修正すること。それが生きている人の責任だろう。

 

本の学校でいじめが多いのも、この言語を大切にしないことも間接的、見方によっては直接的に影響している。有名な言葉があるだろう:「考えている事に気をつけろ、それが君の行動になるから」という具合の。言語を大切にしないと、論理的思考もできない、論理的思考が出来なければ、倫理も育たない。思い遣りも育たない。想像力が育たないからである。

 

「ヤバイバイ」しか言わない子供がどれだけ多いことか。

動物の鳴き声の様ではないか。

「キーキー」

「ぴーぴー」

それで「伝われば良い」というなら、彼等の勝手なのかもしれないが、知的に観れば、国が滅ぶ方向へ向かうのも全く不思議ではない。大人が「ヤバいヤバい」しか言わないから。もうちょっと人間らしい言葉を話すようにした方がいいのではないか。それは着飾った敬語を使おうという意味ではない。意味を重んずる言語を少し意識して使おうという意味であり、また相手の言わんとする意味も理解しようとする「姿勢」のことである。

 

この「姿勢」が無い人も非常に多い。

それは「傲慢である」と云えるだろう。

 

 

そんな大衆の在り方はさておき、

自分の人生を豊かにする為には、自分が言語をより大切するという意識で生きれば、日本国内で生きるにしても、より上手に生きることができるだろう。それはより清い思考になるからであり、清い思考とは、清い心に繋がり、頭脳明晰になり、ストレスも減り、問題解決や行動に集中するといったメリットが得られるからである。

 

当たり前の話だ。

人間は言語を基本的に使って思考するのだから、その道具が正確性の高い高品質なものの方がより高性能な情報処理がストレスなくできる。何事も「雑」は駄目だ。ちゃんとやることが大事だ。もちろん、自分の頭の中で情報処理をする時の言語と一般的な日本人と関わる時の言語は使い分ければ良い。

 

 

あまり上手に説明できなかったが、とりあえず此の辺りで。